2008-12-01から1ヶ月間の記事一覧
悪い行いは悪い報いを受け、善い行いはよい報いを受けるということ。過去や前世の因業に応じて果報があるという意。仏教の教えに基づく言い方だが、現在では悪いことをしたら悪い報いを受けるのは当たり前だといった意味合いで使う。
敵に武器を与えたり、盗人に食料をくれてやったりする。敵に利益になるようなことをする行為。また、悪人に悪事を働くのに都合のいい口実を与えることを言う。
深い川の淵には波は立たず、浅い瀬ほど波が立つ。思慮が浅薄な者ほど万事落ち着きがないというたとえ。
悪い縁ほど強く結びついているもので、離れるのが極めて難しいことを言う。
自分にとって大事なことさえ終えてしまえば、後は人任せ、どうなろうと意に介さないということ。
魚で蠅を追うとかえってますます蠅が寄ってくることから、物事の処理・解決に間違ったやり方・手段を用いるたとえ。
過失を犯すのは誰にでもあることでやむを得ないが、過失を犯したと気づきながら、なおも改めようとしないことこそ、真の過ちだということ。『論語』より。
カエルや蝉がやかましく鳴き立てるように、ただやかましく騒ぐこと。騒がしいばかりで役に立たない議論や文章のたとえ。
あれこれと他人の世話を焼くよりも、自分自身のことをきちんと始末せよということ。
無益な争いをするうちに、第三者に利益をさらわれることのたとえ。俊足の犬がはしっこい兎を追い続けたが、やがてどちらも力尽きて倒れてしまった。そこで通りかかった農夫は、労することなく獲物を手に入れることができたという、『戦国策・斉策』の寓話に…
言葉や行動は、人として最も重んずべきものであるということ。
悪妻を持つと、夫だけでなく子・孫の代にまで悪い影響が及ぶということ。「百年の不作」は一代三十年として三代にわたる悪影響の意。
悪妻は夫の一生をだいなしにし、家庭を壊すということ。
どんなに苦しくても道に背くようなことはしない、してはならないという教え。また、不義、悪事には決して近付くな、ということ。
悪事の報いは針の先を回るように、即座に現れるということ。
明日もまだ咲いているだろうと安心していた桜も、夜中に嵐が起こってはかなく散ってしまわないとも限らないということ。「仇桜」はすぐに散ってしまう、当てにできない桜のこと。
恩義を忘れるだけでなく、去りぎわに恩知らずなことまですること。
夏の猛暑が過ぎると物陰の涼しさやありがたさを忘れてしまう。苦しかったときに受けた人の恩も、楽になると忘れてしまいがちだということ。
朝、人の生きるべき道を聞き知れば、かりに夕べに死んでも心残りはない。『論語・里仁』にある孔子のことば。「道」は「道徳・道義」などに見る道で、人の踏み行うべき規範。道を学ぶことの大切さを言う。
あつかましく、恥知らずでずうずうしいこと。つらの皮の厚いこと。
病気は口から入る食物の不注意から生じ、禍は口から出ることばの不注意から引き起こされるということ。対句の形で注意を促しながらも、その心は後半部にあって、軽率な発言をしてはならないと戒める。
いかに身近で親しくても、越えてはならない境界を設けよ。親しい間柄であっても、礼儀を忘れてはならないということ。
他人の世話を焼くよりもまず自分のことをちゃんと処理せよということ。
親しい間柄ではつい気がゆるみがちだから、なおさらに節度を守ることが大切だということ。「垣」は垣根。転じて、隔ての意。
鬼のように冷酷な人が、心にもなく情け深いようすを見せること。「空念仏」は信心もないのに唱える、嘘の念仏の意。
味方でありながら内部から災いをもたらす者や恩を仇で返す者。本来は、獅子の体に寄生して、ついには獅子を死に至らしめる虫の意から、仏教を害する仏弟子のたとえ。『梵網経』に「獅子身中の虫、自ら獅子の肉を食らい、余外の虫にあらざるが如し」とあるの…
天地間に個として存在する「我」よりも、尊い存在はないということ。釈迦が生まれたとき、一方の手では天を、一方の手では地を指して、七歩進んでから四方を顧みて言ったということば。「唯我独尊」は自分だけが優れていると思い上がるうぬぼれの意でも使う…
心にやましいところは全くない。すべてをお見通しの天の神に対しても恥じるところはないの意で、清廉潔白・公明正大の形容に使う。 孟子が、君子の三つの楽しみのうち、二つ目の楽しみとして説いたもの。心にやましさがあっては安楽には過ごせない。
容貌は菩薩のように美しく柔和であるが、その心は夜叉のように残忍邪悪であるの意。 仏教で、女性を出家の修行のさまたげになるものとしていましめたことば。
般若心経に出てくる。 『色、受、想、行、識』 のことである。 ものごとを識る過程を意味する。 ひとつのものごとの上辺だけを見て、全体が解る筈もなし。 自ずから識るためには、何をすべきか考えねばならない。